EDODENブログへのご訪問、大変ありがとうございます。

さあ、本日は、ビッグネームのご登場です。
まずは、ヒストリーから、どうぞ・・・。

今からさかのぼること、27年前の1992年11月21日。
この日、のちの日本プロ野球界のみならず、
アメリカメジャーリーグでも名を馳せることとなる一人のプロ野球選手が誕生しました。

交渉権

プロ選手への道のひとつ、プロ野球ドラフト会議では複数球団からの指名を受け、命運は、球団側からの交渉権の抽選へ。
見事、「星稜高校、野手、松井秀喜」を引き当てたのは、当時の読売巨人軍監督 長嶋 茂雄さん。
この日から、日本のプロ野球界は、「松井 秀喜」一色となっていったのです。

「巨人ファンじゃないけど、松井は好きだ」という野球ファンも多く存在し、
とにかく、連日、スポーツ新聞には「松井 秀喜」という名前が踊っていました。

さて、翌1993年、松井選手は、EDOSENと縁(ゆかり)の深~い人物と出会います。
そ・れ・は・・・。

2019年松井さんと広岡校長
(2019年6月、松井さん帰国時のツーショット。※当ブログでしか公開されていない画像です。無断転載はご遠慮ください

江戸川学園おおたかの森専門学校
広岡 勲 校長です!

その当時、広岡校長は、報知新聞社で記者をしていました。
担当はプロ野球、しかも読売巨人軍。
スポーツ新聞に限らず、記者が、ある取材対象者に特化して取材することを「〇〇番」と呼びますが、
広岡校長は「松井番」として10年間、その後のメジャーリーグでの広報職として10年間、
あわせて20年にも及ぶ歳月を松井選手と関わることになったのです。

(もちろん、まだこの時は、ご当人たちも周囲も想像さえしていなかったこと・・・)

自分だけを担当する記者が付く選手はそんなに多くはいません。松井選手がいかに逸材だったかがわかる要素でしょう。
弱冠18歳の松井選手。入団した途端、朝から晩まで「ネタ」を探す各新聞社の番記者さんたちに張り付かれます。
現在、高校生の方、こんな生活、いかがです? 想像するだけでも大変さがわかりますよね。

自身が不調のとき、チームが負けたとき・・・。出来ることなら、取材は受けたくない。
でも、松井選手は、日本時代も、そして、アメリカ時代も、「取材を断る」ということを一切しませんでした。

あるとき、巨人軍に報告しないまま、痛みをこらえて試合に出場した松井選手。
球団関係者がそのことを知ったのは、松井選手の様子を観察し分析してスクープした広岡記者の「松井、故障」の記事でした。
当然、球団関係者は怒り心頭です。
報告義務を怠った松井選手は厳しく叱責され、また、スクープした広岡記者は球団から煙たがられます。

親密になったからといってペンを緩めることなどまったくなかった広岡記者に対して、
「それがプロだから」と相手の仕事に敬意を表する。
松井 秀喜という人は、そういう人物だったのです。

書籍画像
(ベストセラーの『不動心』松井 秀喜著。「新潮社ホームページ」より転載)

読売巨人軍での10年間を経て、アメリカメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースに入団する松井選手ですが、
そこからも、まだまだ苦闘の野球人生は続きます(「後編」に続きます。ご期待ください!)


さて、ヤンキースを皮切りに、アメリカ球界でも活躍した松井 秀喜さん。
現在は「ニューヨーク・ヤンキース GM(ゼネラルマネージャー)特別アドバイザー」として、お忙しい日々をお過ごしです。

20190605サンケイスポーツ
(千葉県 成田市内でのイベント。2019年6月5日(水)付 サンケイスポーツ紙より。クリックすると拡大します)

現役引退後はニューヨークに拠点を置く松井さんですが、日本でのイベント出席依頼も多々あり、
帰国時には、広岡校長と会食するなど、今でも親交は続いています(上のツーショットは、この帰国時のものです)

明日の後編では「松井秀喜さん×広岡校長」の会話から、ぜひ、皆さんにもお伝えしたい内容をご紹介いたします。引き続きお読みいただければ嬉しいです!

以上「前編」でした。

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